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● 2019年10月6日 「兄弟愛について」 
 

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、
人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。
彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、
山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、
あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、
わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、
わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、
渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、
着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、
おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、
悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、
渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、
裸であったときにも着る物をくれず、
病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、
病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、
この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、
正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

(マタイ25章 31〜46節)

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イエス様は終末を迎えるクリスチャンについては24:45で語られました。
このうち知人の思慮深さについては25章の十人の乙女で又、
忠実さについてはタラントの喩に学びました。
次は時に応じて食物を与える愛の奉仕について羊と山羊の喩で学んでゆきましょう。
この羊と山羊の喩は32・33節で語られているが、
本当は最後の審判の預言的たとえであります。
事実キリストはご自分を王にたとえられ自分は王座に就いて
裁く王であると預言されたのでした31ー34節。
キリストは栄光の御座に就くときはすべての民をその前に集めると言います。
今までは少数の特定の人々、十人の乙女や主人の僕だけに限られていましたが、
今回から最後のふるい分けがすべての国民に関わる
大きな出来事として預言されています。
マタイ24:14節でキリストが栄光の御座に就いて、福音がすべての国民に証され、
すべての国民がキリストに対する態度が現された時、裁きの御座が開かれるのです。
その時羊と山羊を分けるようにとあるように、
それまでは羊と山羊はともに生活していたのでした。
それは一つの畑に麦と毒麦があったマタイ13:30,36−43節、
一つの網に魚と障害物が同居していたマタイ45−50節、
一つの家の門前で十人の乙女が待っていた、
一つの家で忠実な僕と不忠実な僕が主人の帰りを待っている14‐30節等
今までの喩は同じところにいたとしても救われる者に危険は及びませんでした。
しかし、ここでは羊たちは「空腹」「渇き」「旅で困難し」「病気」ばかりか
「獄」に入れられたりするのです。
           …続く
 

 
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