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● 2019年9月15日 「わたし、主に聞け」 
 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

(ローマ10章 13節)

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私達が住んでいる世界には偶然というものは何一つありません。
「大豆をまくと大豆ができ子豆をまくと子豆ができるものです」。
ヘブル3:4にも「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、
すべてを創られた方は神様です。」と書かれています。
私達が一軒の家を建てる場合でも建てる人がいて始めて出来上がるものです。
まして万物が偶然に出来上がったと如何して信じることが出来るでしょうか。
それではどのようにして創られたのでしょうか。
聖書はヨハネ1:1-3に万物は神様の言葉によって創られたというのです。
更にヨハネ1:4「言葉は神となって私達の中に住まわれた」とあり
イエスキリストを意味しています。
イエスキリストは30歳になるまでナザレで過ごされ、
ヨルダン川で洗礼を受け聖霊様を受けて出て行かれました。
ですからイエス様が語り行ったことは、
神の言葉が肉体となって私達の眼に現れるようには働かれたことなのです。
従ってイエス様が罪を赦されたのは言葉が赦したのであり、
病を癒されたのは神の言葉が病を癒したのであり、
悪霊を追い出したのは神様の言葉が追い出したのであります。
死んだ人が生かされたのも神様の言葉が死人を生かされたのであります。
イエス様が悲しみの代わりに希望を、死の代わりに命を、希望と信仰と愛を下さったのは、
まさに神様の言葉が、肉体を取って私達の間で働かれた事を見ました。
このイエス様が私達の為に、死んで葬られ三日目に蘇って昇天された。
では私達は孤児のように見捨てられたのでしょうか、今日、
神様は神ご自身であるみ言葉を聖書に記録して私達に下さったのです。
「天地を創造したそのみ言葉、
肉体をとって来られ私達の間でイエスキリストという名前で奇跡と印を行われた
そのみ言葉が紙にプリントされ聖書として私達の手にあるのです。
そしてみ言葉は神様だというのです。
ですから今日、神様に出会い、イエス様に出会おうとする時、
あの天のかなたに行く必要がありません。
地に下っていく必要もありません。
申命記30:14「言葉はあなたの近くにある、あなたの口にあり、心にある。」
この言葉とはみ言葉とはイエスキリストなのです。
ですから、み言葉を尋ね求めていくなら、神様にみ言葉の中で出会い、
イエスキリストに出会い、
このみ言葉を通じて神様の力を体験することができるのです。
この書かれたみ言葉が生きたみ言葉として私達に命を与え、力を得るために、
私達の中に働いていただくために、
私達がしなければならないことがあります。
 

 
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