私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、
私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。
途方にくれていますが、行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
|
(Uコリント4章7〜9節)
|
|
私たち人間は土の器であるといわれました。
器はそれだけでは価値あるものでなくその中に何かを入れるようにつくられたものです。
その中に物を入れた時初めて価値ある物となるのです。
同様に私たち人間も、
その心の中に神様を受け入れてこそ本当の価値あるものとなるのです。
今日人間は神様を入れず悪魔を宿し生きているのです。
これが今日の堕落と世の悪を生み出す要因となってしまったのです。
イエス様がこの世に来られ十字架で血を流された理由も、
悪魔の支配をうけている人を救うためでした。
そして、この土の器なる人間が神なるイエス様をお迎えするなら
土の器から尊い価値あるものとされるのであります。
この土の器にイエス様をお迎えしているとはどんな意味を持っているのでしょうか |
|
1. |
聖書は四方八方から苦しめられるが窮することがないと言っています。 |
|
この世に生きている限り、多くの敵によって私たちは盗み殺し滅ぼされそうになります。
しかし、十字架によって死と黄泉に勝利された、
悪魔に大勝利されたイエス様によって勝利者とされたのです。
イエス様は十字架で「完了した」と言われた時、
私達全人類のすべての罪を清算されたのです。
復活されたことによって死の力と悪魔の滅ぼす力を打ち破って下さったのです。
この十字架の死と復活によって私たちは永遠に勝利を得るものとなったのです。
主またはイエスキリストが私たちとともに生きてくださることによって
勝利を手に入れることが出来るのです。
それは彼らを身傍近くに置くことから始められました。
イエス様の身傍で休息する事が始まるのです。
そしてイエス様の愛を十分に体験して、
恵みと祝福の中に霊と魂と肉体が憩って
その恵みを持って人々に伝道していくのでした。
よく熱心に伝道しながら、途中で自分自身信仰を失ってしまう人がいます。
その人はイエスキリストの恵みの御座から信仰生活を始めなかった人であります。
愛されている人こそ人を愛する事が出来るのです。
許された人こそ人を赦すことが出来るのです。
ですからイエス様は弟子を選んだ時第1に身傍近くに来させ、
その魂に十分な休息をお与えになられたのです。
もう一つの事はイエスキリストのくださる賜物を喜ぶのではなく
イエスキリストご自身を喜ぶように教育されたのでした。
私達は何を持って喜んでいるでしょうか。
|
2. |
この世の苦しみの嵐が吹いてきます。 |
|
この債務証書は律法を意味しており、律法は永遠に訴えてくるのです。
「お前は罪人だ」「お前は捨てられた石だ」「価値なき存在だ」と。
しかし、この人を不利に陥れ入れる債務証書を無効にしてしまわれました。
|