イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
道ばたにいちじくの木が見えたので、
近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。
それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。
すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。
「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
イエスは答えて言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、
いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、
たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
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(マタイ21章 17〜22節)
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祈りはすべてのクリスチャンの信仰の経験の中では最も深く、
かつもっとも単純な経験であります。
新しく救われた人でもすぐに祈ることが出来るのです。
祈る人は神様によって祈りが答えられるということの特徴を持ち
又、権利として神様に与えられているのです。
もし神様を信じてクリスチャンになっていながら、
祈りをするけど祈りの答えを得ていないならその信仰は全く疑わしいものであります。
クリスチャンに祈りましたと尋ねると同時に、
祈りは聞かれましたかと尋ねる必要があります。
今日私達は聞かれる祈りとはどのような祈りなのかを学んでいきましょう。
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1. |
まず最初に具体的に求めなくてはなりません。 |
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私たちの周りを見渡すと、よく祈る人を見ることが出来ます、
又よく断食をし、よく異言を語ったりするでしょう。
しかし祈りがきかれたと証する人はあまりいないでしょう。
ですから私達の祈りを一般的な、また自分と遠く離れたもののために祈るのではなくて
個人的な、私個人にとって特別なもののために祈るようにしなければなりません。
祈る時には明確な目標を持って祈らなくてはなりません。
イエス様は盲人で物乞いをするバルテマイに何と言われたでしょう。
「バルテマイ、あなたは何をしてほしいのか」と言われました。
誰が見てもバルテマイが求めることは目が癒されることであったでしょう。
しかしイエス様は私たちに問われるのです「何をしてほしいのか」と
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2. |
悪い求め方をしてはいけません。 |
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クリスチャンは自分の必要のために祈るのですが、
誰でも不合理に、分を超えて求めるべきではありません。
この悪い動機によって求める時神様は私たちの求めるところの
一切をはるかに超えて豊かに与えてくださる方であっても聞いて下さらないのです。
悪い求め方とは
a. |
その人の信仰を超えて求めることです。
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b. |
その人の信仰を超えて自分の欲望のために求め祈ることです。
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3. |
第3の条件は罪の赦しをも求める祈りをしなければいけません。 |
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心の中の不義を持つとは人の心の中にあって捨てようとしない罪があって
捨てようとしないことです。
神様はどんな罪も赦して下さいます
・・・・続く
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