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● 2018年12月30日 「主の祈り」
 

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

(マタイ 6章11〜13節)

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いつもクリスチャンは祈りを捧げますが、その祈りは主の祈りがなければればなりません。
主の祈りの中に祈りの必要な部分が示されているのです。
 
1. 私たちの日毎の糧を与えたまえ。
 

祈りは抽象的なものではなく肉体を持っている、
生きている人の身近な現実問題にかかわる問題ということがよくわかります。
もちろんキリスト教は新興宗教のように、祈りの始めから終わりまで
地上のパンや金銭のような現世利益ばかりを願うものではありませんし、
仏教のように心の修行や悟りにばかり終始するものではありません。
クリスチャンは地上で生きていくためのパンを祈り求めて行かなくてはならないのです。
それも神様のために祈りをもって生きていくのです。
ただ何となく生きるのではなく日々に神様に養われていくことを求めていくのです。
このところに出てくる日毎という言葉は非常に珍しくめったにでないもので
一般のギリシア語の文献でもめったに使われないもので、
明日のパンだろうという人もいます。
しかしイエス様は後に明日のためには心配するなと言われていますし、
ルカには日毎にパンを与えてくださいとあるので
その日に必要なパンを与えてくださいと祈るべきであります。
注意しなければならないことは私達に日毎のパンを与えてくださいの
私たちにという言葉に注目しなければなりません。
自分だけが満腹し他人を見殺しにすることは祈りにあってはならないのです。
 

2. 私の負い目を赦してください。
  まずクリスチャンは神様から必要な糧をいただき、
神様の憐みの中で生かされて初めてまともな人生を送れるものです。
これだけでも神様に負い目を感じて赦しを乞わなくてならない存在なのですが、
私達は一生懸命神様の業をしているつもりなのですが、
結果自分の好き勝手な祈りを捧げたり神様からいただいた命も富も
自分の欲望だけに用いて盗んだりして
神様に多くの損害と負債を与えている存在なのです。
真実を知る程に私達は負い目をお赦しくださいと祈るものです。
罪とその負債のためにイエス様はその尊い命を捧げてくださった。
その結果私達は罪の裁きから許され
・・・・続く
 
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