私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
祈りは抽象的なものではなく肉体を持っている、 生きている人の身近な現実問題にかかわる問題ということがよくわかります。 もちろんキリスト教は新興宗教のように、祈りの始めから終わりまで 地上のパンや金銭のような現世利益ばかりを願うものではありませんし、 仏教のように心の修行や悟りにばかり終始するものではありません。 クリスチャンは地上で生きていくためのパンを祈り求めて行かなくてはならないのです。 それも神様のために祈りをもって生きていくのです。 ただ何となく生きるのではなく日々に神様に養われていくことを求めていくのです。 このところに出てくる日毎という言葉は非常に珍しくめったにでないもので 一般のギリシア語の文献でもめったに使われないもので、 明日のパンだろうという人もいます。 しかしイエス様は後に明日のためには心配するなと言われていますし、 ルカには日毎にパンを与えてくださいとあるので その日に必要なパンを与えてくださいと祈るべきであります。 注意しなければならないことは私達に日毎のパンを与えてくださいの 私たちにという言葉に注目しなければなりません。 自分だけが満腹し他人を見殺しにすることは祈りにあってはならないのです。