私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。 途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、 それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、 それは、 イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
神様は私達人間を土の器であると言われました。 器とはそれだけでは価値のあるものではなく、 その中に何かを入れるように創られたものです。 その中にものを入れた時始めて価値あるものとなるのです。 同じように私達人間も、その心に神様を受け入れてこそ本当の価値ある者となるのです。 イエス様がこの世に来られ十字架のうえで血を流された理由も、 悪魔の支配を受けている人を救うためでした。 そしてこの土の器なる人間が神なるイエス様をお迎えするなら、 土の器が尊い価値ある者とされるのです。 この土の器にイエス様を迎え入れるということはどんな意味を持っているのでしょうか。