そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。
「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
人の子には枕する所もありません。」
また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。
「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
ところが、イエスは彼に言われた。
「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
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(マタイ 8章19〜22節)
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イエス様はマタイ章で3つの病を癒されました。
このような時によく起こることは、ただ奇跡だけを見て無数の群衆が付きまとうことです。
そこでマタイはイエス様に従うとは、
神様を信じるとはどのようなことなのかを取り上げ18〜22節で教えているのです。
私たちもある意味では病気、家庭問題、仕事上の悩みを持って
解決を欲しくて求道していましたから、
いつまでもそのような従い方で良いのか考えなおさなければなりません。
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1. |
心の準備ができているか |
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18節を見ると奇妙な言葉です。
群衆が解散したので向こう岸に行くというなら理解できるのですが、
群衆が押し迫っているのに向こう岸に行ってしまうというのです。
イエス様に伝道の熱心さや群衆に対する愛がなかったのでしょうか、
決してそんなことはありません。
イエス様には二つの理由がありました。
その一つは他のところにも福音を伝える任務がありました。
もう一つは疲れておられたのでした。
イエス様に従うことは愛をバランスよく身につけなくてはなりません。
99匹と一匹の羊のように同じ愛を注ぐのです。
奇跡の実を求める群衆を置いてでも福音を語る民を求める愛を持つのです。
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2. |
19・20節の人物は言葉を見れば立派なものでした |
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しかしそこには人生の悔い改め・回心がありません。
律法学者でしたので神様に対する、メシアに対する知識はあったのですが、
得た知識・体験信仰を捨てて幼子のように従う熱心さはありませんでした。
この律法学者はイエス様を先生と呼んでいます。
ライ病人も弟子達も主と呼んでいるにもかかわらず。
律法学者は当時上流階級でした。
そして従うということは20節のように覚悟を持てるかと問われたのでした。
従う者はおのが十字架を負い、十字架の道を歩むのです。
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3. |
もう一人の弟子に対して引き留めておられます |
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今まで従ってきたがいよいよこの先どうなるかわからないので、
父親の葬りを済ませ従うつもりでした。
しかし従う者はナジル人のように身を汚すことは許されませんでしたし、
従う者は私的なことを優先させてはならないことを言われたのでした。
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