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● 2018年8月19日 「兄弟愛」
 

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、
人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。
彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、
わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、
わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、
渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、
着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、
おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、
悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、
食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、
病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、
牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、
この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、
正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

(マタイ 25章31〜46節)

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イエス様は週末を迎えるクリスチャンについて思慮深い、忠実な僕だと言われました。
思慮深さについては10人の乙女でたとえられ、忠実さについてはタラントの喩でした。
次は時に応じて食物を備える愛と奉仕について、羊とやぎの喩で学んでいきましょう。
羊とやぎの喩は32・34節で、本当は最後の審判の預言的喩であります。
事実イエス様はご自分を御座に就く王として民を裁くことを預言されたのでした。
これまでの喩は少数人の喩でしたが、今回はすべての国民にかかる大きな出来事でした。
その時は羊とやぎがともに存在するので危険や迫害に遭遇するのでした。
イエス様はクリスチャンに対する迫害の慰め・励ましを語っておられます。
羊は山羊と同居しているのでやぎのように生活した良いのだと考えてはいけません。
終わりの日には振るわれることを意識しながら生活をするのです。
終わりの日に入れられる御国は、世の始めから準備されているのです。
その時には創造できない程の祝福を受け継ぐのです。
そのためにやぎとは違った生活をしていくのです。
私たちは「祭司長や民の長老たち」たちが
イエス様に対して質問をするのを聞いてきました。
この人たちは45節では「祭司長たちやパリサイ人」たちと置き換えられています。
前は身分によっての表記であり後は信仰の立場からの表記で、
当時の祭司長はサドカイ人ですので、
サドカイ・パリサイに限らずイエス様に逆らったと考えてよいでしょう。
この人たちの足をとどめイエス様は悪い農夫の喩を話されたのでした。
この前の喩「二人の子の喩」は彼らが犯してきた頑固、強情の罪が語られたんですが、
今日の喩はこれから犯そうとしている罪が預言され、
その刑罰とともに誰の権威で遣わされたかについて答えられています。
 

1. では最後の時羊とやぎと振い分けられる原因はどこにあるのでしょう。
  兄弟愛の実践であります。
しかし実践が救いの決めてだとすれば福音の根拠である
「信仰によって救われる」ということが妨害される恐れがある、
 
指導者に語られる。
 
正しい人の根拠ではなく正しい人の証拠として考えるべきである。
 
B 皆が非常に驚いている点。
 
口先だけの信仰ではなく真実の信仰が求められる。
 
2. 山羊の言い分をみると
 
全て大きな業ではなかった。
 
イエス様の言われたことは普通の事ばかりで、時には自己犠牲が求められる。
…続く
 
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