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● 2018年8月5日 「呼び水となった信仰者」
 

さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、
ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。
御使いは彼のところに来て、 「コルネリオ。」と呼んだ。
彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。
すると御使いはこう言った。
「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
さあ今、ヨッパに人をやって、シモンとう人を招きなさい。
彼の名はペテロとも呼ばれています。
この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、
側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。

(使徒 10章 1〜8節)

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先週のメッセージより
今までユダヤの人々に対して、
彼らのイエス様に対する反発も情状酌量の余地があると考えていました。
イエス様がユダヤで生まれた、ヨセフの子供であったこと、
処女マリアから誕生したことなどで理解できなかったであろうと考えていました。
しかし聖書は明らかにユダヤ人はイエスがキリスト、
メシヤであることを承知で十字架で殺したことが記載されています。
聖書では神様には全く非がないこと、人の側は全く悪である事が明確にされています。
その他黙示録1章にはユダヤ人はその日イエス様を仰いで嘆くとあります。
ですから彼らはイエス様に対しての罪は確信犯でありました。
当然の報いとしてエルサレムは崩壊し、
国を失い彼らは流浪の民として全世界に散らされたのでした。
しかしローマ書にあるように神様はこの民に約束した元木・イエス様・神の祝福を惜しみ、
その選民としての特権を取り上げ異邦人に与えられたのでした。
このユダの民が救われずして異邦人は救いに入れことはできないのです。
恵みによって救われた私達は誇ることなくユダヤの民のために祈らなくてはなりません。
アブラハムがソドムとゴモラの救いのために懇願し受け入れられた時、
10人の善良な人が町に居らず滅びてしまいました。
ユダヤ人の中に善良な人はいなかったのでしょう。
皆がイエス様を十字架に付けろと叫んだのでした。
彼らに神様の救いの余地はなかったのです。
キリスト教徒は神様は人の意志によって自由に出来ると考えているのでしょうか。
これは大きな間違いです、神様は誰かに特別に加担される方ではありません。
見習うべきはその人生がどうであれ神様に忠実に従う信仰が必要であります。
 

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