イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、
バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――
主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い
スカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。
イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。
イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
そこで、そのサマリヤの女は言った。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、
飲み水をお求めになるのですか。」
――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、
あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、
あなたのほうでその人に求めたことでしょう。
そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
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(ヨハネ 4章1〜10節)
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今日多くの人々は自分はどこから来て、何のために生きてどこに行くのかわかりません。
ただ一時的な快楽のために生きているのです。このような人に永遠の喜びはありません。
彼らは真実の自分を忘れ霊が死んだ状態で生きているのです。
しかしイエスキリストを受け入れた私たちは、死んでいた霊が生き返り、
神様の子となり永遠の喜びと希望の中に生きているのです。
神様はその独り子イエス様の肉を裂き、
血を流して私たちを救いの大きな恵みを与えてくださったのです。
この神様のくださった子供として生まれ変わった出来事は新生と呼ばれます。
この新生とはどのようなものでしょうか。
ある晩の事でしたユダヤの指導者のニコデモがイエス様の所に尋ねてきました。
彼はパリサイ人で、富める者で当時の権力者の一人でした。
イエス様がイスラエルの指導者と呼んでいるように敬虔な徳の高い人でした。
しかし彼は心の中に永遠の喜びを持ってはいませんでした。
彼は人目を避けてイエス様の尋ねたのでした。
このニコデモにイエス様は人は新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ない、
水とみ霊によらなければ神の国に入れないと言われました。
アダムの子孫である人は自分の能力や努力によっては
生まれることも救うことも出来ないのです。
神様の超自然的な命と力によってでなければ新生することは出来ない。
新生はアダム・エバの堕落の後に人類を支配している死の力を取り除いて新しい命、
キリストの復活の命を受けて、内的に変化することを意味しているのです。
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多くのクリスチャンは一つの間違った考えを持っています。
それはイエス様が良い模範を残されたので
私たちはこれに従うべきであるということです。
しかし聖書は自分の力で従えとは言っていません。
神様の力によって従うために日夜力を得るために祈るのです。
この祈ることも人には限界があるのです。
注がれたときは良いのですが注がれない時は、
まったく答えられず敗北の時もあるのです。
この問題を解決するために聖書は「イエスキリストは私達の命」であるということです。
イエス様の命が内にあってこそ模範に従う事が出来、
新しく新生することが出来るのです。
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2. |
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ニコデモはユダヤの指導者であり貴族階級に属していました。
またパリサイ人であるので彼は神様に熱心な人でした。
イエス様を教師と呼んでいたので彼は学者であったようです。
この世ではもっとも優秀な人であったので
肉で神様の国入れるなら入れた人だったでしょう。
しかし彼は神様の国に入れるどころか平安のかけらも持ってはいませんでした。
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3. |
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どうすれば神様の国に入れることが出来るのでしょうか。
・・・・続く
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