さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。 イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、 御霊はまだ注がれていなかったからである。
世界の国々は毎年膨大な予算をくんで教育に力を入れています。 それは文明の尺度が教育にかかっているからです。 今日の人間の競争は個人は言うまでもなく社会国家においても頭脳の競争です。 私達イエス様を信じ救われ、神様の国に入ると言う信仰の世界も、また頭脳の世界なのでしょうか。 人びとがより多くの聖書知識や神学知識を持つことは持って深い信仰の世界に入ることができると考えています。 もちろん深い信仰に入るにはこのような条件は必要ではありますが、その知識が深い信仰を生み出すことはありません。 信仰とは聖霊に始まり聖霊の働きによって成長し聖霊によって完成されるものなのです。 天地創造の業を見てもそうです。イエスさまの御業も聖霊の御業でした。 30年間私達人間の弱さを体験され、その罪の働きに祈りと激しい涙をもって歩まれました。 そして後の公生涯はあらゆる罪の力を打ち破りユダヤを巡り歩かれたのでした。 そして公生涯最後には十字架につかれ死を体験し復活によって死の力を全く打ち破られたのでした。 イエス様は十字架に付けられて私達自体の受けなければならない罪の代価を受け入れられたのです、 十字架の上で6時間もの間血を流し、その肉体はムチで破られたのでした。 その苦しみを通じて父なる神様は私たちの一切の罪咎を取り除いてくださったのでした。 ですからこの時私たちがイエス様を信じるだけで一切の罪咎を赦されるのです。 ですからどんな神学も聖書的な知識も聖霊様の働きがなければ、肉にしかすぎず、文字にすぎないのです。 それなのに多くの人びとは、頭の中で信じること、文字・知識で信じること、心で信じる、御霊によって信じることを区別できないで迷った信仰生活を送っているのです。 多くの人々は頭で信じることが信仰だと思っています。 どうしたら心で信じることができるのでしょうか。