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● 2018年2月4日 「弟子たちの訓練」
 

それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、
何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、
人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

(マタイ 16章24〜26節)

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私達クリスチャンはイエス様を愛し、その御足の跡に従う者として日々努力しているものです。
しかしイエス様に従っているつもりが、知らず知らずのうちに外れてしまい、困難な道に歩むことがあります。
今日はこんなことがないように、イエス様についていきたいと思う人のあるべき姿を学んでいきましょう。
まずこのことは誰に語られたのでしょうか。
マタイでは弟子に語りとあります。
マルコは群衆と弟子達とあり、ルカには皆のものに語られたとありイエス様のこの教えはすべての人に語られたことでありました。
その教えとは「誰でも私についてきたいと思うものは、自分を捨て、自分の十字架を負いそして私についてきなさい」でした。
 

1. 自分を捨てる
 

自分を捨てるということは自分自身を否定することです。
ペテロ達は網・舟・家族を捨ててイエス様に従いました。
マタイは収税所の椅子・自分の身分・地位を捨てました。
もちろん得たものを捨てることも必要ですが、違った深い意味があるのです。
ペテロがニワトリが啼く前に3度イエス様を否んだことで、自分の命を得るためにイエス様を否んだのでした。
自分の持って生まれた性質・その命さえも捨てることなのです。 
 

2. 十字架を負え
  次に自分の十字架を負うことです。
十字架というものは暗殺・強盗・反逆罪のような極悪な罪人、それもローマ市民以外の罪人に行われたいまわしい刑でありました。
ムチの傷と手首の釘跡から流れ出る大量の血、釘穴に全体重がかかる痛み、直射日光にさらされる苦痛、長時間にわたる付けられる苦しみ、激しい飢えと渇きによって頭は錯乱し、恐怖にさいなまれて死を迎える刑でした。
ですから十字架を負うということは我と我が身を死に向かって運ぶことを意味しているのです。
つまりイエス様を信じることによって受けるののしり・辱め・友人知人からの不理解や損などを喜んで受けていくことです。
ルカは自分の十字架を日々負うのであるとあります。
 
3. 私に従う
  詳約聖書では「私に堅く寄りすがり、生きるにもまた必要なら、死ぬにも、全面的に私の模範に習いなさい」とあり、イエス様の十字架の生活に習いなさいとあります。
イエス様に従うにはご一緒する覚悟がいるのであります。
 
4. 祝福を受ける
  何故このような常識はずれな困難を覚悟しなければならないのでしょうか。
それはこの世の幸せと不幸せが逆転するからです。
詳約聖書は誰でも自分の命(地上の慰めと安泰)を一心に努める者は(永遠の命)を失う・・・とあるのです。
 
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