イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。
そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。
ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。
家は香油のかおりでいっぱいになった。
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、
彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、
いつも盗んでいたからである。
イエスは言われた。
「そのままにしておきなさい。
マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
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(ヨハネ 12章1〜7節)
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油注ぎの出来事は、
イエス様が十字架のみ業を迎えられる前にベタニアのラザロの家で起こったことでした。
同様の出来事が福音書によって違っています。
マタイとルカは、
食事に招かれた家がライ病人シモンで香油を注いだのはひとりの女であり、
香油は頭にそそがれました。
ルカ書では招かれた家はあるパリサイ人の家で
独りの罪深い女が足に香油が注がれたのでした。
ヨハネではベタニアでマリヤによって足に香油は注がれたのです。
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1. |
色々な信仰 |
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異言はどのように聖書ではとらえられているのでしょうか。
① |
マルタは相変わらず給仕をしていました。
以前イエス様を接待しようとして忙しく働き、
マリヤがイエス様の足元で熱心に聞き入っていた時、
マリヤは良いことをしている、大事なことは多くなく、
神様の言葉に聞くことが大切なことだと言われました。
この時もマルタは自分の力をもって主に仕えようとしていたのでした。
肉で仕えようとすることは人の常であります。
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② |
ラザロはイエス様のお言葉に聞き入っていました。
12章で死んで復活を経験し
この世に未練もなくなったラザロはただイエス様の言葉に聞き入っていました。
この模範的な信仰を私たちは見習わなくてはなりません。
いつも主の前ひざまずく者になるのです。
その時主はみ言葉を与え祝福の人生に導かれるのです。
異言はすたれると言われていますが、
完全なるものイエス様の再臨によってすたれるのであって
今はまだ聖霊様の時代であります。
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③ |
マリヤはどうだったでしょうか。
マリヤは主の御心を悟り、
イエス様の葬りの準備のために香油を足に注いだのでした。
マルタのように色々なことで主に仕えることも素晴らしい、
ラザロのように自分の人生をイエス様に委ね
その御言葉に聞き入ることも素晴らしい、
でもまだ自分の肉が働く仕え方であります。
マリアのようにイエス様の御心を深く悟ろうとする信仰を目指さなくてはなりません。
この信仰の姿勢を目指していきましょう。
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2. |
ラザロはイエス様のお言葉に聞き入っていました。 |
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このナルドの香油300gは当時の男性の労働の1年間にあたる価値がありました。
しかし神殿で2レプタを捧げたやもめを称賛されたイエス様は、
多く捧げたからではなく心がこもったものを捧げたからだと言われました。
献金や奉仕に心を捧げて仕えるようにしなければなりません。
真の信仰は、
キリストに対する真の愛の上に成り立ち、
真の愛は自分自身を限りなく捧げていくものです。 |
3. |
家に招いた人 |
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律法に生きるパリサイ人はルカ書では罪深い女を心で裁くのです。
律法に生きる人は何処までも人を裁き神様の恵みに生きることはできません。
弟子達も聖霊様が下ってこられた時に始めて悟りを得たのでした。
聖霊様により頼まなければ霊に生きることはできないのです。 |