しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、
見えのために長い祈りをするからです。
ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、
改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。
あなたがたはこう言う。
『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。
しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
愚かで、目の見えぬ人たち。
黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。
しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
目の見えぬ人たち。
供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、
どちらがたいせつなのか。
ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、
その上のすべての物をもさして誓っているのです。
また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、
その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、
律法の中ではるかに重要なもの、
すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。
これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。
そうすれば、外側もきよくなります。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは白く塗った墓のようなものです。
墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、
あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
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(マタイ23章 13〜29節)
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イエス様は群衆と弟子たちに「律法学者とパリサイ人」とは違った
正しい信仰の実践を求められました。
彼らは従わなかったのでイエス様は7回にわたって忌まわしいものだと非難されました。
イエス様の福音は山上の垂訓の「幸いなることに始まり神様の愛と恵が伝えられました。
しかし彼らは頑固にこれを受け入れず、
この頑固さに対する深い悲しみから忌まわしいものだという言葉で
福音が語り終えられたのです。
この後終末の出来事の預言、心構え、
ゲッセマネの祈りと十字架の死と復活につながっていくのでした。
イエス様は福音をもって私たち人間に決断を迫られます。
神様の福音を受け入れ「幸いに生きるか」従わずに「禍にいきるか」、
モーセがみ言葉に従う幸いと背く災いとを預言したように。
神様は私たちに「命と幸い」「死と災い」の選択を迫られるのです。 |
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1. |
教えのあやまち |
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律法学者たちとパリサイ人達は天国を閉ざしている。
それは知識を人々に与えないことです。この世の宗教は知識を必要としません。
しかし信仰には知識が必要です。
ヤコブはおじさんラバンに騙され姉のレアをめとったのです。
知らなかったので騙されたのでした。
聖書の知識とは、ただの知識・認識ではなく、
人格的に相手を知り、愛し交わる関係のことです。
神様との人格的な交わりを教えなかったことと彼らが交わりがなかった |
2. |
本末転倒な教え |
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① |
彼らは神殿よりも黄金を、祭壇より供え物を尊んだのでした。
しかしイエス様は黄金より神殿、供えものより祭壇を尊んだのです。
私達が礼拝をするものは神殿に住まわれ、
祭壇に立っておられる神様に捧げるのです。
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② |
十一献金について間違った教えをしている点でした。
小さなことにこだわって大きな大事なことが抜け落ちていると非難されています。
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3. |
彼らは偽善者 |
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イエス様は彼らの外側だけでなく、内にある物に注目されました。
外側の姿・行いはきれいに塗られた墓石のようだが
中身は悪で満ちていると非難されたのです。
彼らの信仰は偽善だと言われ人は外側を見る、
しかし神様は内側を見ると言われたのでした。 |