しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
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(マタイ 28章16〜20節)
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さて十一人の弟子達にガリラヤに行ってイエス様が命じられた山に登ったとありますが、
どの山であるか明記されていませんし、
女たちが天使から聞いたガリラヤで主に出会えることも
多くの弟子は知りガリラヤに向かったであろうことも想定された中で、
十一弟子を強調してマタイは記述しています。
パウロが後に書いたコリントの手紙に
主は500人以上の弟子たちに一度に会われたことはこの時であろうと思われる。
マタイは十一弟子に与えられた大宣教命令が、教会を通じ、
すべてのクリスチャンに命じられたことを強調してこのような記述になったようである。
この大宣教命令は3つに区別することができます。
第1は復活のイエス様の権威、第2は大宣教命令第3は約束であります。
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1. |
16-18節 |
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イエス様は山に登り山上の垂訓を語り、デカポリスの病人を癒し、
4000人の人々を養い、山に登って変貌し、使徒を選ばれたのも山の上でした。
このようにイエス様は山の頂でいつも栄光を現されました。
でもこの時の現れ方は頂からゆっくりと弟子たちに歩み寄られたのです。
その時ある弟子は気付き礼拝し、
ある弟子達は疑い最後には礼拝するというものでした。
そして天においても地においても一切の権威を授けられたと言われました。
ギリシヤ、ユダヤでは宇宙とか世界というような概念はなく、
天と地という表現で全体を現しました。
また正反対なものを表現することによって、より無限の大きさを現しています。
イエス様は今までも権威ある業をされました。
しかしこれらは人間にかかわる権威であり
今は人間世界の権威を含んだ創造出来ないほどの権威を持っておられるのです。
権威は力の源泉です。実力のない権威ではなく
実力の伴う権威をもっておられるのです。
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2. |
19・20節 |
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それゆえあなた方は言って全ての国民を弟子とせよ、
それゆえという接続語は重い意味があります。
キリストが一切の権威も持っているが故その故に天と地の権威が服従し
すべての国民が従うことでなくてはならないのです。
すべてとは生存している、また生存していたところのすべての人々なのです。
イスラエルも異邦人も、男も女も、大人も子供も、年齢の関係なく従うのです。
このすべての国民を弟子にすることは2つの方法によるのです。
バプテスマには父と子と聖霊のみ名によってと告白します、
「によって」とは「の中に」「基づいて」という意味があり、
三位一体の神様の名によって神様と結び合わされるということです。
次にバプテスマを受けて教会に行けばそれで終わりではありません。
教えをもって成長させなくてはなりません。
「あなた方に命じておいた一切のことを守るように教えなさい」に従い、
十一弟子の教え、聖書を学び人格的に成長するように教えるのです。
そのために聖霊様が遣わされ私たちを助けるのです。
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3. |
20節 ・・・・・・・・ |
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