そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、
それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」
彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
イエスは彼らに言われた。
「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、
わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
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(マタイ 22章35〜44節)
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イエス様に対するこの質問はマタイとマルコに記述されています。
マルコ書のほうは真面目な求道の問いとして書かれていますが、
マタイ書はパリサイ人からの論客でイエス様を試そうという下心を持ったものでした。
パリサイ人の学者達はモーセの律法を分析して
248の積極的命令と365の禁止命令に分け613の律法があると言っていました。
そしてどの戒めに従うかを判断する必要があったようです。
ところがイエス様はいとも簡単に
「こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし主なるあなたの神を愛せよ」と言われました。
モーセはこの戒めを告白することを命じたので人々は日に2度は唱え、
また経札を門の右柱に着けたり、経札を小さな箱に入れ額と左手首にむすんでいました。
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1. |
あなたの主なる神を愛せよ |
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このシェマは有名であっても簡単明白なものではありません。
何故愛するかと言えば私たちの主は神様だからです。
律法学者が言う「神様はひとりであってそのほかに神様はいない、唯一の神様」
もろもろの神様の中でではなく、唯一の神様であって、ほかに神様は存在しない。
またこの神様が私たちと契約を結んだ唯一の神様という意味でもあるのです。
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2. |
パリサイ人の意図 |
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経札を結び付けてイエス様に律法の言わんとする大切な戒めと聞けば
当然シェマを答える事は予想されたはずです。
それはカイザルへの納税の時のように
熱心党的な反逆させるように意図したものでした。
主なる神様を愛せよというなら、
なぜユダヤの指導者に反逆しないかと迫ったのでした。
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3. |
イエス様の答え |
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隣人を自分のように愛せよという答えでした。
この隣人とは兄弟・あなたの民・同胞イスラエルのことでした。
ヤーウエを愛する者は、
ヤーウエと同じ関係に立つ者に対して憎しみや恨みを抱けることはできないのです。
むしろ自分自身のように愛さなくてはなりません。
パリサイ人にとって最も手痛い回答でした。
それは彼らパリサイ人は神様への熱心さを主張し、
自分たちだけで一派を組み、時の権力者に反発し、
他のユダヤ人に対しても分裂派として見下していたのでした。
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4. |
この戒めは預言書も主張する |
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イエス様はこの戒めは律法全体と預言書も主張すると言ったのです。
パリサイ人たちは預言書に描かれている、
ダビデのように戦いによってユダヤを勝利に導くメシアを待ち望んでいました。
でもこのメシアは、申命記やレビ記によって戒められるものです。
それでパリサイ人たちにメシアとはと問いただしたのでした。
詩編でダビデはわが主と語っている所をもって
メシアはダビデの子ではなく神様の子であると反論されたのです。
そして神様の子であり、
ダビデ・人の子であるイエス様こそこの2つの戒めを完成させることが出来たのです。
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