では、これらのことからどう言えるでしょう。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、
権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
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(ローマ 8章31〜39節)
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ローマ書8章のみ言葉はパウロの勝利の宣言ともいえるみ言葉です。
この語りは当時のローマの雄弁家達の用いた話法でディアトリベーと呼ばれていました。
それは群衆に呼びかけ、問いかけながら自分の話を進める手法で、
語り手と聞き手が対話をするという手法でした。
そして最後にクライマックスとして勝利の宣言をするのです。
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1. |
31節〜34節 |
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敵対する者がいなくなったという意味ではなく
35節の患難・苦悩・迫害・飢え・裸・色難・剣などの色々な敵する力が現実に働いても、万事が神様によって益になるので最終的には敵する者はいない、
誰もいないとなるのです。
この勝利は条件付きです。神様が味方ならばです。
当時の神様の真実を語るときにユダヤ人が話題にすることは、
アブラハムがイサクを捧げたことでした。
このようにアブラハムを愛した神様は今日も私たちを愛し祝福してくださるのです。
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2. |
更にこの地上で苦難に会うことは、私のためとあります。 |
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主のために苦難を受けるのです。
苦難を受けることによって、私たちは主にある事を知るのです。
キリストに結び付けられた自分を知るのです。
世の宗教のように信じれば苦難はなくなるとは言わないのです。
神様を信じる時に苦難は勝利に代わるというのです。
その勝利は尋常ではない圧倒的な勝利だとパウロは言っています。
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3. |
34節キリストは死んだだけではなく蘇って今も生きておられる、
私たちとともおられると言うのです。 |
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聖霊なる神様としてともに人生を負って生きてくださるのです。
又、天の聖所においてご自身の贖いの血をもって
全能なる神様に執り成していてくださるのです。
どうして悲しみ失望しておられるでしょうか。
この現実の世界から、天上の霊の世界に及ぶ領域に神様の力は及んでいるのです。
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