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● 2016年6月19日 「求めよ」
 

彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。
イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。
「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」
イエスは手を伸ばして、
彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。
すると、すぐに、そのらい病が消えた。

(ルカ 5章11〜13節)

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私たちが祈りを捧げるとき模範となる祈りは主の祈りであります。
その祈りの中には祈るべきすべてのものが含まれています。
次に祈るときの心の持ち方が問題になります。
どんなにすばらしい祈りをささげても心が伴っていなければ祈りは届かないのです。
今日の御言葉は祈るときの態度について教えています。
夜中に尋ねてきた友人に出すパンを求めに隣の友人を訪ねます。
しかし夜中で戸が閉めていたし、
子供たちと寝床に就いているので起きてパンを貸すわけにはいかないということでした。
パレスチナでは夜に昼の暑さを避け旅をすることがよくありました。
この旅人も夜旅で真夜中に着いたのでしょう。
 

1. いつでも祈る
 

私たちも突然の必要や緊急のことで誰かの助けを必要とすることがあるでしょう。
その時に何でも叶えて下さる神様に祈るものです。
祈りは夜中であっても祈ることができるのです。
神様はまどろむことなく、眠ることなく私たちを見守って下さっているのです。
ところが隣人の返答は冷ややかなものでした。
確かに突然夜中に訪ねて来ることや、
子供がともに寝床に就いていて起き上がることによって
子供たちが寝付けないなどのことで断ることは当然なことです。
でもこの人は叩き続けたのでした。
こんな熱心な求めをもって祈らなくてはなりません。
 

2. 祈りは相撲を取ることです
  創世記のヤボクの渡しでヤコブが神様の使いと相撲を取りました。
ヤコブは一晩中神様の使いを離しませんでした。
神様の使いはヤコブのもものつがいを打ちましたが、
まだひるむことはありませんでした。
とうとう神様の使いはその願いを叶えたのでした。
そしてイスラエル’神に固執する者’神を捉えて離さない者’
という称号を得たのでした。
またルカ18章にある不義な裁判官の求めるやもめ女の喩でも
求めるものは得ることができるのです。
このように考えますと神様は冷たい隣人や気難しい裁判官のように考えてしまいます。
確かに真剣に祈った人ほどそのように感じてしまうものです。
人は得る前に自分で納得し祈りを下げてしまうのです。
私たちは神様に聞いていただくという信仰があるかを問われるのです。
相撲を取る人は勝つ気で土俵に上がるべきです。
3. そこで私は言う
  求めなさい、叩きなさい、探しなさいと言われるイエス様は’
そこで私は言う’カゴオー’アイとエゴオーという 言葉の複合語で
非常に強い表現がされているのです。
父なる神様との祈りの生活で体験したことの故にあなた方に勧めると
イエス様が言われるのです。
この求め続けなさいということを持続させることは心低いものでなくてはできません。
祈ったけど聞かれないと信仰を失う、
祈りをやめる人は私はという心高ぶった人であります。
今日の喩でも求めた人は心低く求めたことでしょう。
神様に祈り求める人は自分がどのような存在であるかを知らなくてはなりません。
心低くするものは求め続けることができるものです。
 
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