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● 2016年5月15日 「患難は祝福」
 

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、
突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町にはいりなさい。
そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。
そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

(使徒 9章3〜9節)

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患難に出会うことはこの世に生きる人にとって逃れることができないものです。
誰も逃れることはできないのです。
クリスチャンのある人たちは神様を信じ、
神様を恐れて生きるなら患難から逃れて生きることができると考えます。
しかし現実には患難の中で苦しんでいる人たちがいるのです。
 

1. 患難の意味
 

聖書は患難はキリストの祝福に与かる者であると言います。
パウロはローマ書のなかで患難は忍耐を生み出し、
忍耐はれられた練達、
練達は信仰と希望を生み出し希望は失望することはないと言うのです。
いろいろな聖書の箇所で患難は祝福にいたるものだと言うのです。
 

2. 患難はキリストに出会うところ
  パウロはダマスコ途上でキリストに出会います。
その時に死ぬような患難を体験しました。
パウロは熱心な信仰者でしたが彼は神様は知ってはいましたが、
神様を体験していませんでした。
パウロが新生するためにはこの患難が必要だったのです。
キリストを体験するところが患難の時なのです。
ヨブは熱心な信仰者でした。
神様をその生き方を褒めているぐらい完璧な信仰者でしたが
患難が彼を襲ったのでした。
ヨブはこの患難の後に神様を見るものではなく知る者になったと喜んでいます。
 
3. ペンテコステは生まれ変わる時
  聖霊様が弟子たちに下ったその日、
弟子たちは全く新しい者に生まれ変わったのでした。
弟子たちの状況は最悪な環境でした。
それは頼っていたイエス様は十字架で取られ、迫害がその身に迫っていました。
彼らが頼る者は復活されたイエス様に教えられた聖霊様でした。
彼らは力を受けることを求めたのです。
私たちは患難を恐れるのではなく、患難から主の恵みを聞くものになりましょう。
 
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