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● 2016年4月24日 「主を知ること」
 

イエスは、そこを去って道を通りながら、
収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、
「わたしについて来なさい。」と言われた。
すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、
見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、
イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、
行って学んで来なさい。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

(マタイ 9章9〜13節)

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今日のみ言葉はマタイがイエス様によって召された所です。
この出来事によってイエス様が来られた意味が明らかにされたのでした。

1. 4節
 

マタイと言う名前は「主の賜物」と言う意味がありました。
マルコ書ではアルパヨの子レビと紹介されていますが、
シモンが召されてペテロと呼ばれたようにレビもマタイと呼ばれたのでした。
マタイは取税人でいた、
異邦人である皇帝や領主のために税金を取るのですから
人々から憎まれた存在でした。
彼はイエス様に召されたときにすぐに従ったとあります。
彼はペテロたちと違い一度職を捨てるなら二度とは戻れないものでした。
神様は救われたときにそのままの、自分の賜物に従って生きよと言われます。
でもマタイはイエス様に従うためには職を捨てなくてはなりませんでした。
 

2. 10節
  召されたマタイはイエス様と多くの人々を招いて宴会を開いています。
マルコ書を見ても何処で宴会があったのか不明瞭ですが
ルカ書ではマタイの家であるとあります。
このところでイエス様を信じたものは自分の家にイエス様を招き、
人々をイエス様を引き合わせる務めがあるのです。
ペテロやコルネリオも人々に伝道のため家を用いています。
あなた自身の生活がイエス様を証する拠点とならなくてはなりません
3. 11−13節
  使徒ではペテロはコルネリオに対して
ユダヤ人は異邦人と交際したりすることを禁じていますが、
イエス様はこのことに二つの反論を語っています。
 
医者の喩をもって、医者は病人のために存在します。
病気が移ると言って病人に近づかなければ病人を癒せないように、
クリスチャンは罪人に積極的に近づくのです。
イエス様は罪人を招くためにこられたのです。
 

イエス様はホセアを引用して、
ギリシャ語では「あわれみ」と訳されていますが
ヘブル語では「ケセド・いつくしみ」とあり、
ホセアは北イスラエルに向かってエフライム、
南イスラエルにはユダと言ってケセドを失ってはいけないと呼びかけるのです。
 

イエス様は神様に対するケセド・愛が失われないように呼びかけるのでした。
イエス様に従うクリスチャンは、
神様を知ることを切に求めよと人々に呼びかけるケセドを失ってはいけないのです。
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