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● 2016年4月3日 「聖なるものを与えるな」
 

聖なるものを犬に与えてはいけません。
また豚の前に、真珠を投げてはなりません。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

(マタイ 7章6節)

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私達クリスチャンは7章5節にあるように「裁くな」という戒めが神様から与えられています。
だから兄弟姉妹を裁かないこと、積極的に愛することを神様から要求されているのです。
しかしクリスチャンは他人に対して何も判断してはいけないのか、
教会に戒める権利がないのかと言えばそうではありません。
今日の御言葉はむしろこの権利を命じている言葉なのです。
正しい裁き、物事を評価することは難しいものですから慎重に学んでいきましょう。

1. 聖なるものと真珠とは
 

聖なるものとは神様に捧げられ聖別された供え物とか献金のことを言います。
しかし真珠に例えられたものはもっと抽象的なものが多いのです。
たとえば旧約では知恵、すなわち主を恐れる信仰は真珠にまさると例えられています。
ですから真珠と言うものは具体的に聖別されたものだけではなく、信仰、
救いの御国などの抽象的な知識やクリスチャンの特権などを言っているようです。
キリスト教を犬や豚に与えるなということなのです。
 

2. 犬や豚とは
  犬はヘブライ語のかみつく、つかむという言葉から由来していて、
ユダヤ人にとってけがらわしいもの野蛮なものとして犬と呼んでいました。
豚は横を見ている、細い目と言う語源を持っていて汚れた醜い習性を意味しています。
この言葉で表現されているものは偶像礼拝者や異教徒、
未信者の類のように思いますが、
ペテロは主を信じこの世から救われたにもかかわらず、
再び世に帰って行った人のことを言っているのでした。
それ以外にも悪い働き人、
ダビデは自分に敵対するイスラエルの人に対して犬という表現を用いています。
このことで全世界に福音をと言うことと矛盾しないことがわかります。
 
ジョンカルビンは誰が犬や豚かわからないので福音を惜しまず語れと言いました。

予定説の意味することも全ての人々が救われることを期待しています。
このように真珠を犬や豚に与えるなと言うみ言葉は、
キリスト教を聞いたことのない人に、
異教徒に福音を伝えることが正しいか悪いという伝道の問題ではなく、
キリスト教を受け入れたが、
反発しかみついてくる人や軽んじている人に対して
毅然とした厳しさが必要であると言うことなのです。
 

聖餐式にこの言葉は用いられた。
 

3. 学ぶべきこと
 
いつも自分が聖なるキリスト教の恵みに授かるにふさわしいものであるか、
犬や豚になってはいないか自問する者でなくてはなりません。
パウロはコリントの手紙で視聴しないクリスチャン、
未信者と同じような生活をする霊的な幼子が居ると非難しています。
霊的な幼子とはヘブル書が教える初歩の教えの中で
互いに噛み合ったり争ったりするクリスチャンのことだと言っています。
 

いつも求道者の心を失ってはいけません。
求道者とは教会生活を行ったり、世に戻ったりする者、
傍観者のようなクリスチャンのことではなく、真剣に神様について、
キリストを求めていく心を持つものでなくてはなりません。
 

教会は真珠であるこの福音を語り続けることと
聖なるものとして汚させないようにするのです。
教会は福音を語り続ける気迫を持たなくてはなりません。
またいつまでも犬や豚のような信仰で噛みつき細い目をする、
主を恐れない人々に聖なるものを与えない強い意志をも持たなくてはなりません。
永遠の命にふさわしくない者にならないように気を引き締めていくのです。
 

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