イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。
すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、
彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。
「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。
そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
しかし、イエスは言われた。
「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、
あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
しかし、弟子たちはイエスに言った。
「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
すると、イエスは言われた。
「それを、ここに持って来なさい。」
そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、
天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、
弟子たちは群衆に配った。
人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
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(マタイ 14章13〜20節)
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ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが迫っている頃、
イエス様の十字架の1年前の3・4月ごろの出来事でした。
過ぎ越しの祭りには成人男性はエルサレムの神殿に巡礼することが定められていたので、イエス様の周りにはイエス様を追いかけてきた求道者、うわさを聞いた近所の人々、
巡礼途中の旅人が集まってきていました。
その数は21節では男だけでも5000人、
女子供も入れると10000人近くの大群衆でありました。
この群衆を5つのパンと二匹の魚で満腹させ、しかも多くのパンが残ったのです。
これは大きな奇跡です、
この奇跡によってイエス様が神様の御子であることをアピールされたのでした。
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1. |
この奇跡は真実です |
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人々はこの奇跡を合理的に、人間的な知恵で解釈しようとしました。
しかしこの奇跡は人が手を付けることができない、
イエス様が神様の御子であることの故にできた奇跡なのです
① |
ヨハネ書ではすでにイエス様はピリポに
この群衆の腹を満たすのはどうすればよいかと尋ねられ、
ピリポは不可能ですと答えているのです。
論議された結論として不可能と断言されたものでありました。
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② |
マルコ書ではイエス様がこの群衆の中に
どれだけの食物があるか調べるように言われました。
その結果として5つのパンと二匹の魚が差し出されたのでした
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③ |
マタイでは夕方と書かれてありますが
ルカ書には日が暮れかかった頃とあり、
ユダヤでは日が西に傾くと「日が傾いた」、「夕方になった」、「時が遅くなった」
と表現していたのでした。
ですから日のまだまだ高い時刻された奇跡であったのです。
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④ |
マルコ・ルカ書をみると、
群衆を50人単位のグループに分けるように指示しておられます。
これから5000人以上の人々にされた奇跡であることがわかります。
見て騙される手品は多くあるでしょうが、
この状況ではごまかされたとは考えられません。
神様はいたるところで人々を養う奇跡を行っておられます。
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2. |
奇跡は神様の啓示です |
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奇跡は神様がご自分についての特別重要な真理を人々に気づかせるものです。
ルカ書では人々はイエス様のことを
「エリヤ」「昔の預言者の一人」だと噂していました。
この奇跡のあとイエス様は弟子たちにに質問され、
イエス様は「神のキリスト」と返答しているのです。
奇跡の業はイエス様が神様から遣わされたメシヤであることを
わからせるためなのです
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3. |
メシヤなるイエス様の使命 |
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人々はこの奇跡を体験したのちにイエス様を地上の王として崇めたのです。
ヨハネ書には追いかけてきた人々に、
印を見たからではなくパンを食べたから来たのだと言われました。
奇跡を見てイエス様をキリスト、命を与える真のパンではなく、
この世のパンを得させることのできるキリストと見たのでした。
イエス様は人々に永遠の命のパンであり、人を養うことができる真の牧人なのです。
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4. |
イエス様はこの地上を祝福するメシヤ |
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イエス様に渡されたものは5つのパンと二匹の魚にすぎませんでした。
しかしイエス様によって5000人以上の人々を満足させたのでした。
人は小さな存在ですが神様の手によるならば偉大なことが起こるのです。 |