群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、
イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。
漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、
陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。
そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、
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「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
するとシモンが答えて言った。
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。
でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。
彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、
二そうとも沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
イエスはシモンにこう言われた。
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
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(ルカ 5章1〜10節)
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多くの人はクリスチャンと言うだけで特別の関心を寄せてくることがあります。
また宗教を持つならとのアンケートでもキリスト教は上位に位置するのです。
クリスチャンになるためには修行や資格を必要とはしないのです。
ただイエス様を救い主として、神様として受け入れるだけでなることができるのです。
しかし力強く、イエス様と同じような業や使命を持つ、
また弟子となるためには色々な心の準備をしなくてはなりません。
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1. |
心の貧しい人 |
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心が低くへりくだった貧しい人がイエス様の弟子になることができるのです。
イエス様が弟子たちを選ばれたときも貧しい漁師たちから選ばれました。
弟子に信仰以外の何かを求められませんでした。
教養も、知恵も、権力も、身分もいらないのです。
経済的に富んだ弟子もいたのです。
つまりイエス様の前で自分自身が乏しいと自覚する者、
無力さを悟る者、貧しいと自覚する者が弟子になれるのです。
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2. |
献身を新たにする人です |
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イエス様がアンデレについてきなさいと言われましたが、
これはちょっとそこまでと言う意味ではなく、人生をかけて従えと言うことでした。
天に召されるときまで私はクリスチャンであることを心に定めている人こそ
イエス様の弟子なのです。
人は弱い存在で神様との関係が弱くなる時に形あるもので、
例えば礼拝の出席の熱心さ、献金や奉仕などで信仰を保とうとしたりするのです。
神様との密なる関係を保つためにはいつも献身をあらたにしなくてはなりません。
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3. |
弟子となる者は使命を明確にする |
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クリスチャンは何のために生かされているのでしょうか。
神様の十字架の愛の故に生きている私たちは、
神様の栄光を世に現すために神様の業をするのです。
そして人々をキリストに導き、救いをもって人を救いに導くのです。
そのために健康が必要を求め、経済が豊かに潤おうことを求めるのです。
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