イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。
そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。
そしてマルタは給仕していた。
ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。
家は香油のかおりでいっぱいになった。
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、
彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、
いつも盗んでいたからである。
イエスは言われた。
「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、
それを取っておこうとしていたのです。
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(ヨハネ 12章1〜7節)
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この世界に生きる人々は皆幸せを求めて生きています。
しかし多くの人が自分の人生に幸せを感じてはいません。
それは幸せを間違えて理解しているからです。
その間違いは環境が自分を幸せにすると考えているのです。
この世の地位や名誉・権力・金銭などは幸せの一部でありますが
幸せそのものではないのです。
もしこれらのものが幸せなら、過去の多くの人々はもっと幸せであったでしょう。
サラセン王国のカレブ・アブラハムであっても幸せでなかったと告白しています。
ソロモン王はこの世のすべては無であると言っています。幸せとは心の状態にあります。
心に罪の迫りがなく、神様と人々から安らいでいるか又人生の意味を悟り、
しっかりとした人生観を確立して生きているなら、その人は幸せな人なのです。
今日幸せな人生を選んだ人物を紹介します。
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1. |
マルタは給仕をして仕える |
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マルタはいつもイエス様の身の回りのことに気を使って忙しく仕えていました。
自分の力を才覚で神様に仕える者でした。それは悪いことではありません。
この人は神様にその能力を用いられ神様の業をこの世に広めた人生です。
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2. |
ラザロはイエス様の言葉に聞き入る |
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少し前にラザロは腐っていて蘇ったのでした。
この世に何の未練もなく、ただ生きているのは神様の恵みであると悟った人でした。
神様の言葉に生き、その人生に生き生きとした神様の臨在に満ちた人生です
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3. |
マリヤは香油を注いだ |
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イエス様の足元にナルドの香油を注ぎ涙していました。
ラザロのように神様の言葉に生かされた者は、
その愛する者の心に関心を持つのです。
イエス様は悲しみの人でした。
人々が罪の中に滅んでいくことを自分のことのように痛み、
自らを十字架に捧げることを決心されていたのです。
その心の痛みを自らのことのように悲しみ、主の御心が実現することを願うものでした。
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4. |
イエス様を招いたパリサイ人 |
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パリサイ人は自分の義を立てて神様に仕えようとするものです。
ですから香油を注いだマリヤを心で裁いてしまったのです。
人の義によっては神様を知ることはできないのです。
つまり満足した、幸せな人生を送りたいものは
イエス様にあって信仰に生きるものなのです。
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