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● 2016年1月24日 
 

では、これらのことからどう言えるでしょう。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、
よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、
後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、
そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある
神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ 8章31〜39節)

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ローマ署8章31-39節はパウロ勝利の歌と呼ばれる部分です。
その語りはローマの雄弁家達が用いた話法でディヤトリベーと言われ、
聴衆に語りかけて話を進めていくものです。
語り手と聞き手が対話しながら進めていくのです。
 

1. 31〜34節
 

誰が敵対しようが、
最終的にはすべてが益になるので対抗する者がないということを語っています。
このパウロの確信はもし神様が味方ならばという条件が付いています。
神様が御子を惜しまずに与えたとすれば、
御子よりも安いものであるこの世の万物は与えられる。
その喩はアブラハムで、ユダヤ教の信仰と献身の象徴であった,
万物をためらいもなく与えてくださるのです。
 

2. 義としてくださる
  誰が私たちを訴えるのか、また罪に定めるのか。
訴えに対してキリストは執り成してくださる。
罪に定める、神様は義とされるから。と捉えるとなるべきだが逆に翻訳されている。
結論的には、神様が私たちを義としてくださっているので誰も訴えることができない。
人から訴えられることや、どんなふうに見られているだろうと考えることが
心の不安の原因となります。
この不安を解決する者は神様が義としていてくださる信仰の確信です。
パウロは誰よりも迫害された人物でしたが神様の義が困難を克服させたのです。
 
3. 執り成してくださる
  イエス様は死んだばかりか蘇って執り成してくださる。
イエス様は父なる神様に愛に訴えて執り成してくださったから、
今は復活して執り成してくださる。
その愛を誰も奪うことができない。
キリストの愛から引き離そうとする力は
現実の患難・苦難・迫害・飢え・裸・剣というもの以上に
現在・将来・つまり空中の権威を持つもろもろの悪霊とサタンを言うのです。
 
4. 勝ち得て余りある
  勝ち得て余りあるとは勝つ・勝利の形容詞にスーパーが付いたものです。
スーパーはもともとギリシヤ・ラテン語で最高と言う意味があり、
最上の勝利者という意味なのです。
 
5. パウロの言わんとすること
  み言葉の中に活きることと教会に仕えることを守りましょう。
教会は御言葉をもって神様の業が実現するために人に与えられたものだからです。
教会は神様に道を示し、悪魔の業から私たちを守る砦でもあります。
 
クリスチャンがこの世で遭遇する苦難は旧約の時代からの常であり、
聖徒たちは苦難のなかでも勝ち得て余りある勝利者だった。
 

苦難に出会うことは私たちのためであり主のためである。
苦難は私たちをイエス様に導き私達は神様が私達を義としてくださることを知り、
キリストが死んでくださったことを知り、執り成してくださることを知り、
最高の勝利が与えられるのです。
その最高の勝利とはこの世の苦難とかサタンは
私達には何の力も持っていないことを知ることと
人の努力や信仰によらずにキリストの愛ゆえに勝利することを知ることです。
 

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