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● 2015年8月16日 「求められる信仰生活とは」
 

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
こう言われた。
 「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。
 けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。
 彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとは
 しません。
 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。
 経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。
 あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。
 あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
 また、師と呼ばれてはいけません。
 あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

(マタイ 23章1〜12節)

イエス様は律法学者とパリサイ人と激しい論争をされました。
それは彼らの信仰を正すことと、人々を目覚めさせるためでした。
特にパリサイ人は人々に信望されていたので激しいものでした。
 

1. 福音は人を祝福するもの
 

パリサイ人はモーゼの座に座り律法を語り、行うことを人々に要求しました。
しかし彼らは神様の祝福と平安を語らず戒めばかりを語り、人々に重荷を負わすばかりでした。
神様の福音は人々を幸せにするものです。
イエス様はわたしのくびきは負いやすく平安を与えるものだと言われました。
 

2. 彼らの真似をするな
  パリサイ人は人に見せるために信仰の行いがあった。
経札を体に付け、ふさを長くして信仰の熱心さを強調して賞賛を得ようとしたり、上座を好んだり先生と呼ばれることを喜んだりしました。
クリスチャンは人に見せる信仰ではなく、神様に見ていただく信仰でなくてはなりません。
 
3. 彼らの言うことは受け入れよ
パリサイ人の実践は真似てはいけないのですが、彼らの語る神様の言葉は従わなくてはなりません。
どんな支配者であろうとも、そのはるか上に居られ支配者を立てられた神様を恐れなくてはなりません。
 
4. へりくだった生活をする
教会は人の集まりであり、信仰の途上者が集まるところです。
当然多くの問題や争いが起こることがあります。
しかしそれらの中で自分の弱さや高慢さを知り神様の福音が必要であることを悟るのです。
柔和でへりくだった者のみが神様のみ国に入ることができるのです。
 
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