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● 2015年6月14日 「異邦人の信仰」
 

イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、
カペナウムにはいられた。
ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、
しもべを助けに来てくださるようお願いした。
イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。
 「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
イエスは、彼らといっしょに行かれた。
そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、
百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。
 「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
 ただ、おことばをいただかせてください。
 そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、
 そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。
 また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。
 「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも
 見たことがありません。」
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

(ルカ 7章1〜10節)

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イエス様がカペナウムでお話をしているとユダヤの長老たちが来て、「ローマの百人隊長の僕が病で苦しんでいます。来て癒されるように祈ってほしい」と百人隊長の伝言を伝えました。
イエス様はその家に向かおうとしたときに、また使いが来て、「イエス様を家にお入れする資格がないのでただお言葉をください。そうすれば僕は癒されます」と言ったのでした。
その言葉を聞いてイエス様は感動され、使いたちが家に着いたとき僕は癒されたのでした。
 

1. 私たちの信仰はどんなものでしょうか
 

信仰は神様からの賜物です。
人の努力や力で得ることはできません。
また信仰はたとえ小さなものであっても、初歩の歩みであっても神様が認めてくださるなら偉大な業を起こすものなのです。
聖書は愛による信仰が重要であるとあります。
山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がなくてはむなしいものだとも言います。神様が認め感動する信仰とは愛に基づく信仰なのです。
この百人隊長はユダヤの僕を愛していて癒されるよう願っていました。
 

2. 愛の深さ
  隣人を愛することは比較的容易なことでしょう。
でも敵を愛し祝福を祈ることは難しいものです。
この百人隊長はユダヤの会堂を建て、ユダヤ人から感謝される者でした。
この敵をも愛する信仰はイエス様を感動させたのでした。
 
3. 謙遜で権威を知った者
私たちは神様に愛され祝福を受ける者ですが、この恵みは神様からの一方的な恵みであります。
どんな時も人の弱さや醜さ、罪深さを自覚してイエス様の十字架の祝福を感謝するものでなくてはなりません。
そしてイエス様の言葉の権威を信じる者でなくてはなりません。
神様の言葉は聖書として私たちに託されたのです。
神様は聖書の言葉に働かれます。
その威光と尊厳は聖書の言葉に現れるのです。
どんな言葉よりも神様が語られる言葉を求めていきましょう。
 
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