だから、こう祈りなさい。 『天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
主の祈りの後半はこの世でクリスチャンがどの世に神様の御栄を現すのかを教えています。
祈りというものは抽象的なものではなく現実の生活に関わるものだということです。 もちろんキリスト教はこの世の宗教のように現世利益を求めるものではありません。 しかし仏教のように心の修行や悟りにばかりを求めるものではありません。 私たちはこの世で生きていくためにパンを求める必要があります。 この世のパンと人に生きる力を与える神様のくださるパンを求めるのです。 この食物は日々神様から求めなくてはなりません。 クリスチャンはこの世のパンではなく、神様のくださるパンによって生かさされていることをこの祈りによって知るのです。