エルサレムから3キロ離れたところにベタニアという村があります。
その村にラザロ、マルタ、マリヤという3人の兄弟姉が住んでいました。
ある日ラザロが大きな病気にかかり死にかけたのでした。
すぐに使いがイエス様の所にやってきて、病が癒されるように願うのでした。
イエス様はその知らせを聞いてなおも2日とどまり、ラザロが死んだと聞いて時にベタニアに向かわれたのでした。
ベタニアに着くとマルタがやってきてイエス様がおられたならラザロは死ななかったと訴えるので
した。
イエス様は、私を信じる者は死んでも生き返るといわれたのですが、マルタ・マリヤは信じま
せんでした。
彼女たちはイエス様を神の子キリストと信じていたのですが、ラザロの死の前にはこの信仰は働かなかったのです。
私たちは信仰と現実を切り分けてしまうものです。
悲惨であるがあるほど信仰はないに等しくなることがあります。
でもその時にイエス様は「信じるならあなたは神様の栄光を見るのである。」と言われるのです。
今一度自分の信仰を振り返って、イエス様は神様のみ子キリストであるということは、人が克服できない死の問題でさえもイエス様には解決できるのできると信じなくてはなりません。
神様の栄光を妨げているのは自分の経験や知識で生きようとする賢さなのです。
この自分に死んで神様に生きることが求められるのです。
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