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● 2014年4月20日 「十字架と死と復活」  齋藤真理子伝道師
 

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

(Tコリント 15章3〜4節)

人の人生で最も忌まわしい出来事とはどんなことでしょうか。
言うまでもなく死のことでしょう。
誰であってもこの世に生を受けたものは、死が訪れます。
どんなに健康に留意していても、逆らっても死は受け入れなくてはなりません。
では死はそんなに失望しなくてはならないものなのでしょうか。
人々は死は人生の終わりと考えていますが、私たちクリスチャンは死は新たな人生の始まりと考えています。
本来の人に変えられる、本来の人生に回帰することなのです。
エデンの園でアダムとエバが神様と共にいたように、すべての創造された命あるものと共に生きていたように創造の最初に戻ることなのです。
ですから死は恐るべきものではなく、希望に満ちた人生への旅立ちなのです。
突然、死が身近に感じるときに恐れ驚くのですが、いつも死と生を感じながら生きることは大事なことなのです。
神様に生かされていること、すべてのことは神様の御心の中で許されて起こっていることを意識するなら死は恐れるものではありません。
私たちの国籍は天にあります。
 

<十字架と死と復活>
 

イエス・キリストは私たちすべての者の罪のため十字架にかかり死なれました。
 
  *キリストは聖書の示す通りに私たちの罪のために死なれた(Tコリント15:3)
  *私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた 
    (イザヤ53:5・6)

罪とは神を認めず、自己中心的な歩みをすること、的外れな生き方をすることであると聖書はいう。
義人はいない、ひとりもいない、すべての者は罪人であると。
罪人の行き着くところは滅びである。
それゆえ、神はひとり子イエス・キリストをこの地にお与えになり、十字架で全人類の罪を取り除くという贖いの御業を成し遂げられた(ヨハネ3:16)
私たちの罪を担い、十字架で裁かれたイエス・キリストは死んで黄泉に下られ、罪を葬られた。
そして、人間にはどうすることもできない死の問題を完全に打ち破り、勝利し、よみがえられた。
主は今生きておられる(Tコリント15:3,4)
イエス・キリストの墓は確かにある。
しかし、そこは空であり、入り口には“主はここにおられない、よみがえられた“とある。
主イエスのよみがえり、復活は歴史的事実である。
イエス・キリストご自身も弟子たちに十字架と死と復活について告げておられた(マタイ16:21)
正に、みことばが成就したのである。
私たちはイエス・キリストの十字架により罪赦され、解放され、自由にされた者、復活の命をいただき、復活の力をもって生きる者に造りかえられたのである。
それゆえ、死のような苦しみ、困難な中にあっても平安でいることができるのである。
そのことを信じ生きる私たちは天に国籍のある者として主が来られるそのときまで、この主のために十字架と死と復活を伝え続けていくのである。
それこそが今、この地上に生かされている私たちの生きる意味である。
 
 

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