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牧師:クリスチャンとしての歩み


● 自己紹介
 
私は1954年大阪市で生まれました。
京都・龍谷大学在学中に、守口にあった単立・守口福音センター(当時)に導かれ、1978年5月に木津川上流にて受洗いたしました。
 
卒業後献身の導きを受けたのですが、社会人として4年、のちに韓国純福音ヨイド教会の日本宣教会スタッフとして4年働きました。
この間、導きにて関西聖書学院に入学、在学中に日本オープンバイブル教団・神戸キリスト栄光教会に導かれ、神学校卒業後も2年間伝道師として奉仕しました。
 
1988年、大阪での開拓のビジョンを実現すべく守口市・土居にて開拓を開始し、1999年、京阪守口市駅前に教会移転し現在に至っています。
私の家族は、妻・長男・長女の4人家族です。
教会の理念は、至る所にて福音を宣べ伝えよ、との宣教命令に従って伝道・宣教、しるしと御業をもって答えてくださる主を証しする教会を目指しています。
 

● 孤独からの出発
 
昭和51年5月30日、京都・木津川上流での受洗。
この日は私にとって一生忘れられない日となりました。
22年間の悩みと苦しみの人生を踏み越えて神の子としての新しい人生が始まったのです。
 
思えば小学生の時、突然、自我に目覚め、
 
 「私は何の為に生き、何を目指して生きてゆけばよいのだろう。
  親の期待に答え友人と仲間はずれにならないように仲良くする。
  なんて自分に正直でない生き方をしなくてはならないのだろう。
  又この悩む心を持ちながら、誰にも覚られないように生きてゆく、
  なんと欺瞞に満ちた生き方なのだろう。」
 
と自分を責めて生きてきました。
 
このような私は友人から一歩引いた存在となり、世界から一人取り残されたような焦燥感に怯えていたのです。
学生時代は『人は人・我は我』と割り切って生きるも益々苦しくなるばかり、何か自分をしっかりさせる精神的土台を求めてばかりいました。
 
当時学生運動の全盛期、家永教科書裁判・東大安田講堂闘争・成田三里塚闘争、高校生であっても世の矛盾を正し社会に貢献できる行動をと思い、
デモ参加・学園祭での憲法問題提起ひいては日本のアジア大陸にたいする戦争責任、内には差別問題を追及する孤独な主張をしていたものでした。
でもどれもこれも皆むなしい。
 
大学に進学するも学生運動の衰退とともに目的を失った日々。
このような人生を神は何のために世界を創り人を創ったのだろうか、
ただ苦しみばかりの日々を神は人に与えたのであろうか、一種の怒りを持って毎日を過ごしていました。
 
時間を持て余し毎日パチンコ通い、人の一生をパチンコの玉に例えて考えていました。
 
 「何者かによって玉が弾かれるように人は生まれ、
  人生に夢をみて上に駆け上がってゆくが力尽きて落ちて行く。
  でも少しでもましな人生をと穴にもぐりこむ。
  全く努力せず投げやりの人生は下のアウト穴。
  でもすべての玉が裏の青い箱に落ち込んでいる。
  人はどんなに頑張っても死がすべてを無意味にしてしまう、
  どんなに潔く努力して生きても何の意味もない。」
 
人生とは何だ。
 
完全に人生に行きずまったその時神が私に手を差し伸べてくださったのでした。
それは短大生だった妻を通じて大学講師だった大久保みどり先生(現在・主イエスキリスト教会牧師)と知り合うこととなり、先生を通じて語られる神のみ言葉に魅了され単立のキリスト教会に導かれたのです。
導かれた教会はペンテコステ系キリスト教会、規則正しく厳格な教会生活でしたが神様に愛され兄弟姉妹との交わりの中で、人生の本当の平安に出会いました。
 
51年12月クリスマス、ある宣教団体の特別聖会に出席。
その時の説教者が宣教のビジョンを熱く語られ献身の挑戦されたのでした。
私はいままで体験したことのない聖霊の感動と熱い迫りを感じ応じたのです。
 
心の中で
 
 「神様、もしあなたが私を本当に必要とされておられるなら印をください。
  ありえないことですがこの説教者を私達の教会に導き、
  今晩のように同じ挑戦をするなら信じます。」
 
と祈っていたのです。
 
翌年新年特別聖会が教会でされなんと説教者はあの祈りの説教者。
はやる心を押さえながら神様あの挑戦がなければと言いながら、献身の挑戦と招きがされ聖霊の導きのうちに献身を決心したのでした。
これが私の夢と幻の献身の第一歩でした。
 

● 主に導かれて
  
新年の特別聖会の印を受けて、私の人生を神様が必要とされている献身の思いを強く持ち、社会人としての第一歩を踏み出したのでした。
でも献身の思いは更に募るばかり、翌年3月神学校に進学したいと願いが強くなり、牧師に相談するのですが道は開かれませんでした。
 
昭和54年4月、学生時代から親しんできたアパレル関係の営業から結婚を機に食品会社の製造管理へと転職。
平日は忙しく仕事をこなし日曜日になると朝の教会学校から礼拝奉仕・青年会活動・訪問などと実に充実した信仰生活でした。
そのような頃定期的にしていた断食で不思議なことが起こり始めていたのでした。
それは絶えず祈り・異言・賛美する中に、静かな透きとおるような声のようなものが、聞こえるようになったのでした。
 
以前より聖霊様との交わりの中で色々なことを教え導いて下さる経験はあったのですが、
この天使の歌声のようなことは初めてでした。
それからこのメロディにあわせて賛美するようになった時でした。
突然目の前に大きなスクリーンのようなものが現れ幻を見たのです。
その幻とは、私が70人位の会衆を前にしてメッセージをしているのです。
会衆の中には数名の白人系の東洋人が、又正面に開かれた大きな扉の向こうには地平線を持つ大地が広がっていました。
その幻に一つのエピソードが続き、
 
  ・私は将来献身をすること
  ・大陸宣教に重荷を持つこと
  ・魂をどのように愛していくか
 
について教えられたのでした。
 
一瞬の出来事だったのでしょう、当時私の仕事は生産過程の機器を同僚と操作していたのです。
すぐそばを人行き交う所にいたのですから、夢でも朦朧となったわけでもなかったのです。
このような夢と幻の体験は誰でもが経験するもので、人に話すまでもないものだと考えていましたが、この幻の体験後留めることの出来ない献身の思いが沸きあがってきたのでした。
 
ところがあまり時を置かずに人生の転機をもたらす試練がやって来たのです。
それは会社から、信仰を取るか・仕事を取るかの二者選択を迫られ躊躇せずに信仰の道を選択しました。
晴天の霹靂とはこのことです。
 
何故?
仕事も順調、何の落ち度もなかったはず。
教会生活も充実しているのに、奉仕も伝道もすべてが祝福のうちにあったのに。
でもこの神様の導きを受け入れました。
 
翌年56年3月の退社予定をうけて年末から韓国・純福音中央教会
(現在・ヨイド純福音教会)吾山里断食祈祷院へ単身、ただ教会と祈祷院の名前の書いた一辺の紙切れを持って出発。
それからは神様が備えて下さったように吾山里祈祷院・祈りの穴に通され無我夢中に叫んで祈りました。
 
私の祈りは唯一つ、
 
 「誰が食べさせ、誰が飲ますのですか。」
 
自分の好むことをせず、ただ神様の栄光だけを求め従ってきたのです。
今誰が食べさせ・誰が飲ますのですかと祈ったのです。
どんな慰めも同情も要らない神様からの答えが欲しかったのです。
初めての本格的な断食祈祷、韓国中に雪が降り零下25〜35℃まで冷えたと言われた冬、体力を消耗させ気も遠くなるような状況での、毛布と聖書を持って何時間も穴の中で祈った断食でした。
断食3日目いつものように毛布に包まって祈っていた時でした。
 
神様のみ言葉が目に飛び込んできたのでした。
 
 「神に来る者は決して飢えることなく、
  また決して渇くことがない。ヨハネ6章」
 
その時、神様の臨在に触れすべての重荷は除かれ、
祈りは感謝と賛美へと変えられたのでした。
 
その日は大晦日の夕方その夜から徹夜で祈祷会が元旦礼拝まであると聞いて
教会へと下っていったのです。
教会のホテルに着いて、無知ゆえにお風呂にたっぷりと2時間半あがったその瞬間、気を失って倒れてしまったのでした。
気を取り戻し立ち上がると反対側に気を失って倒れしながらベットに倒れ込んだのです。
後は朦朧として数時間をベットに臥していました。
そのうちに意識が戻ってきて隣の教会からの賛美が聞こえてきました。
 
 「教会に行かなくては。祈らなくては。」
 
とヨロヨロとする足で教会に向かい、
何万人という会衆の一人となって賛美し祈り、また気を失ったりして元旦礼拝を捧げたのでした。
昼の礼拝が終わり聖書だけを持って感謝の断食を捧げに、再び吾山里祈祷院に向かって出発しました。
この後速やかに神様のみ手が伸ばされたのでした。
 

● 訓練の日々
  
韓国での断食を終えて帰国するやいなや大久保先生より電話で、

 「韓国純福音中央教会・日本宣教会の長老が
 『幸福への招待』を放映している日本フルゴスペル宣教会で働かないか
  とおっしゃっている。」
 
と問い合わせがありました。
 
その長老とは2年前一度だけ会っただけでした。
宣教会の責任者となった長老は日本スタッフのために祈る時、私の顔が浮かび韓国から問い合わせてくださったのでした。
神様は約束された祝福の道を開いてくださったのでした。
 
昭和56年3月、日本フルゴスペル宣教会に遣わされた時、その宣教の働きの大きさと重要さに驚きました。
日本一千万人救霊のもとに趙ヨンギ先生の働きの基礎を築くのです。
テレビ伝道はもとより、北海道から沖縄までの主要な都市での宣教大会の開催、委員会を招聘から会場の選定から宣伝・会計にいたるまでしなくてはなりません。
また、宣教会の財務管理から総務、後には訪韓信徒大聖会の企画旅行の実施など目が回る程多くの仕事があったのです。
 
神様はこの働きの為に、私を営業と生産管理という畑違いの仕事を経験させたようでした。
そのような中にあって、韓国の教会成長に比べ日本の教会成長が伸び悩み、リバイバルを求めてもサタンの攻撃の執拗さを見て、
知らず知らずのうちに日本の教会と牧師の痛みを感じるようになっていました。
 
この宣教会時代忘れる事の出来ない奇跡を体験しました。
それは全日本福音宣教会が宗教法人を取得したことです。
当初から宗教法人取得の要請はあったのです。
でもそれは宣教会の年間予算1億あまりの献金の税金対策でした。
この問題は営利活動をしないみなし公益法人とみなされることで解決していました。
 
ところが昭和57年記憶が定かではありませんが、春頃、翌年10月日本武道館で趙先生とパットブーンを招いての大聖会の計画が持ち上がりました。
武道館との話し合いがされ、本契約時に宗教法人が取得されていることを条件に仮契約がされたのです。
 
晴天の霹靂とはこの事です。
私の頭はパニックとなりました。
宗教法人法のどのところを見ても宣教会が法人を取得できる要素がないのに、
でも神様はみこころのままにこの大聖会を導かれたのでした。
私はこの不可能と思えることに挑戦し始めました。
 
大阪府庁教育課の担当者と法人申請の交渉を始めましたが、当然受け付けてはくれません。
朝に夕に・深夜に祈り不信仰を追い出し、信仰充満になってまた府庁に交渉に行くのです。
気の遠くなるような先の見えない交渉でした。
宣教会がいかに日本にとって有益な団体であるか、
宗教法人を取得する必要のある団体だ、と説得し続けたのです。
 
土地家屋がないことが障害なら日本で始めての例外的措置を取るように要求し、ダメなら何がダメでどうしたらよいかと粘りました。
 
そして昭和57年12月とうとう申請書提出までこぎつけたのです。
担当者はこのように言いました。
 
 「土地家屋のない団体は法人を取れない。
  たとえ申請を受け付けても多くの上司が承認し、
  大阪府知事が承認すること は有り得ない。」
 
そのとき私は、
 
 「あなたはこの申請書を受け取るだけで、
  そのことを心配しなくてよいのです。
  後は神様がしてくださるから。」
 
と言いました。
 
そして続けて申請が承認されとすればいつ取得できるのかと尋ねると、
年末申請なので問題がなければ早くて6ケ月、今までの実績では1年かそれとも3年だと言うのです。
私はこんどは息が止まるような思いでした。
4月の本契約が期限なのに。
それから毎日が試練の祈りの日々となりました。
 
 「信仰は勝利、信仰は勝利」
 
と自分自身を一生懸命励まし熱くなったり冷たくなったり。
そしてその日がやって来たのです。
 
昭和58年3月25日、全日本福音宣教会は宗教法人として認証されたのでした。
府庁の担当者は信じられないと言って認証書をくれました。
この奇跡の体験は私の献身と開拓への信仰を養う出来事となりました。
 

● イエスのみ名
 
宣教会の働きは全日本的に拡大されて行く中、私の教会生活は非常に寂しいものでした。
宣教会の働きとともに母教会を離れ、純福音大阪中央教会(現:カルバリ大阪教会)の開拓とともに所属しました。
 
しかし半年後宣教会の働きのために再び教会を離れ、主イエス・キリスト教会の設立とともに所属することとなりました。
無牧の教会でしたが兄弟姉妹とともに熱心な礼拝を捧げ心を一つに奉仕する日々でした。
このような教会奉仕のなかで、大久保先生が不在の折礼拝説教をするようになっていました。
それは主日礼拝の説教が終わりかけたその時のことでした。
 
突然一人の女性がドアを勢いよく開き、何か思いつめたような面持ちで椅子に座りました。
私は心の中で、
 
 「この女性はどんな人なのだろう。誰の知り合いなのだろう?」
 
といぶかしく思っていました。
何故なら教会が設立されて6ケ月、チサンマンションの9階の一室、トラクトもなく宣伝もしていなかったからです。

でも主はこの姉妹は今日救われると心に語っておられました。
礼拝後この女性と交わり決心を迫ると、躊躇することなく主イエス様を救い主として受け入れたのでした。
それから身上を尋ねると、自分は修験者であり新大阪の近くに修道場・祈りの場を開こうと計画していたところ
体調を崩してしまい人の病気や悩みは解決するが、自分の病気は一向に良くならないで悩んでいた
とのことでした。
 
その日いつものように地下鉄に乗って職場に向かう途中、突然強い霊が臨み自分を導びき降りたことのない駅、また初めての道を20分あまり歩いて、
チサンビルのエレベーターに乗り9階の教会に辿り着いたということでした。
扉を開けると訳のわからない言葉(異言)で叫んでいるので驚いたのですが、
決心して入って神様のみ言葉を聞いて、
 
 「私を救われる神様はイエス様以外にない。」
 
と信じたのでした。
 
私はただただ主のみ名をほめたたえました。
神様は偉大な方、どんなものよりも力強い方と。
 
しばらく後にこの姉妹が欠席するようになったのです。
連絡を取ってもらうと、何か大きな問題が起こって悩んでいるということでした。
姉妹に会って聞くと、イエス様を信じた時から自分にあった悪霊の力が少しずつ弱まり、体調も回復し心にいままで体験したことのない平安と喜びがやってきたのですが、ある時から枕もとに一人のお爺さんのようなものが立って、恨めしそうな目でにらみ続けるようになったのでした。
 
この悪霊は、
 
 「今までわしと仲良くしてきたのに、何故今になってわしを捨てて、
  イエスのもとに行くのか。」
 
と言ったそうです。
それで怖くて不安になって礼拝を休んだのでした。
 
それを聞いた私は嬉しくなって、
 
 「サタンは獅子のように吼えたけても、
  私たちに危害を加えることができない。
  また、どんな悪霊が襲ってきてもイエス様のみ名の権威をもって
  立ち向かうなら、二度と再び悪霊は近づかない」
 
と教え、主の勝利とイエスのみ名の権威をほめたたえて祈って姉妹を送り出したのです。
 
なんとすばらしいことでしょうか。
イエス様を悪霊たちは恐れているのです。
そして私たちクリスチャンに、サタンと悪霊を制する権威を授けてくださっているのです。
 
ところがその夜の礼拝のために祈りはじめた時のことでした。
いつもの祈りなのに遠くから何者かが近づいてくる気配を感じたのでした。
祈って主のみ名によって祈っているのに、なかなか悪霊の気配は去りませんでした。
いつしかイエス様の血潮の祈りとなり十字架の勝利の賛美を捧げていました。
すると突然部屋全体が大きな渦のような力によって震わされました。
おもわず主イエスのみ名を叫んだその瞬間もとの静寂が戻ったのでした。
 
後日この出来事と姉妹が帰宅したときに起きた出来事が、同じ悪霊の仕業であることが分かりました。
でもこの日以来この悪霊は再び姉妹を悩ますことがなくなりました。
 
この体験で私は主イエス様のみ名の権威の偉大さと、どのような働きに召されているかを知ったのでした。
 

● 献身の道に
 
昭和58年1月中旬の宣教会の祈りの時でした。
 
 「神様、今年も春が近づいてきました、私の時はまだですか?」
 
と祈る祈りに主が答えてくださったのです。
神様は私に二人の人物に相談するように言われました。
まず神戸で奉仕されていた女性伝道者に連絡し、会ったのです。
 
献身の導きを受けたことを話すと、
 
 「私はあなたが献身することをこの二年間祈り続けてきました。
  自分の属する教会にも相談して受け入れ態勢が整のっています。」
 
と言われました。
正に主の山に備えありでした。
今でも心躍る思いで家路についたことを覚えています。
すぐに宣教会を辞めて献身しようとしたのですが、宣教会に話を切り出せませんでした。
どうしてこの時間のないときに、また神様が導いておられるのに、前進できないのか焦りを覚えてきました。
 
その時、主はもう一人の相談すべき伝道者を思い出させてくださいました。
その3日後、宣教会の顧問として委員会から帰られた森谷勉先生(シオン宣教団・大阪シオン教会牧師)をお迎えすることになり、献身の導きや主が道を開いておられることをお話ししますと、
 
 「それは良い事です。宣教の働きにあなたが抜けると大きな痛手ですが、
  神様がそのように召してくださったなら決心すべきです。
  そのために全面的に協力しましょう。」
 
と励ました下さいました。
献身の道がこうも簡単に開けるとは思っても見ませんでした。
 
その後、宣教会の大久保先生に許しをいただいて、関西聖書学院(KBI)に入学の希望を伝えたのでした。
それは入学願書受付が終了し入学許可を審査する理事会の2日前のことでした。
当時のことを講師のペーデセン先生(現在帰国)がその年は男子の入学希望者が少なく祈っていたところで、私からの連絡が入った時に神様の導きだと確信しました、と言ってくださいました。
このようにして私は長い待望の時を経て献身という夢に向かって、大きな第一歩を踏み出すこととなりました。
 
ところが覚悟はしていたのですが、現実という試練が私達家族に襲ってきました。
それは私たちをサポートする団体を持たず、また何の経済手段もなく献身したので生活が行き詰まってしまいました。
 
当時、午前中はKBIで学び、昼からは宣教会で働き収入が月9万円ほどで、それに十一献金・家賃・学費を引くと1万円が手元に残りました。
イエス様を信じ救われた時から神様だけを頼りにして生きてきました。
蓄えも持たず「神の国とその義」のために必死に働いてきました。
人に頼ることも苦しみを誰かに乞うこともしたくはありませんでした。
 
でも現実は非常に厳しいものでした。
その4月下旬帰宅すると妻から、
 
 「もうお金がありません、どうすればよいのですか」
 
と問われました。
私にはもうどんな手段もありませんただ祈るだけです。
私はKBIに行けば食事にありつけるのですが、残された家族は食事を得ることは出来ません。
次の日恐る恐る妻に尋ねました。
 
 「今日、何を食べた?」
 
 「今日は米びつに薄く残っていた米を集めて食べました。」
 
また次の日も尋ねました。
すると、
 
 「今日は家中の乾物と粉を集めて食べました。」
 
とうとう何もなくなってしまいました。
この現実の前に献身した事は私の妄想だったのでは、この何年間か暖めてきた夢はあの幻は嘘だったのでは、と責めていました。
 
しかし立ち止まっていては何も起こりはしないのです。
この時ほど自分の信仰の無さを思い知らされたことはありませんでした。
でも私の妻にとって耐え難い大きな試練でした。
二人の子供を抱え親として答えることの出来ない辛さのなかで毎日を過ごしていました。
 
なにもかも失ったその日、妻は祈りました。
妻はアブラハムがシャレムの王メルキゼデクから祝福を辞退したところのみ言葉をもって、
 
 「私は人からではなく神様、あなたから祝福されたいのです。
  あなたこそ真実な神様、あなたに出会いたい。」
 
と祈っていたのでした。
祈り終えたその時、電話が鳴り響きました。
それは妻の短大時代のもう何年も会っていなかった友人からでした。
姉妹は私たちの窮状を知っていたかのように挨拶もそこそこで突然、
 
 「お米をもらってくれないか」
 
と言うのでした。
すぐ後に友人は、いかにそのお米が自分の家に必要のないものであるか説明して送り届けてくれたのでした。
この出来事を通してどんなに私たちは励まされたことでしょうか。
 
その献身に導かれたことに確信をもったこと以上に、主は生きておられる、確かに祈りによって答えてくださる、と強くされたのでした。
 
その奇跡のお米を食べ終えた次の日、家のチャイムが鳴りました。
配達の人がまたお米と醤油を持ってこられたのでした。
それはもう何年も交わりの無かった牧師先生が私たちが献身をしたこと、さぞかし苦労していることかと心配して、せめてお米と醤油があれば食っていけると送ってくださったのでした。
この後も奇跡は絶えることなく、神様は私達を豊かに祝福してくださいました。
 

● 開拓に遣わされて
 
宣教会時代にイエス様の敬意の力強さを体験することがたびたびありました。
北海道の聖会のために通った時も宣教師の不在の教会で起こる悪霊の圧迫、悪霊に悩まされる兄姉との出会いや、沖縄での因習のために苦しむ兄姉のための祈り等、このような体験を通じて、唯一なる神様の信仰と霊的戦いの経験を積んでいったのでした。
 
神学校へ進学と同時に、
 
 「主よ、宣教会での働きの終える時は何時なのでしょうか?」
 
と尋ね求めていました。
でも、はやる気持ちとは裏腹に時間はゆっくりと流れてゆきました。
神様の時を待ち望んだこの時こそ、神様と深く交わり信仰生活の熟成された時でした。
 
昭和59年9月神学生として2年目、伝道者としの訓練を求め宣教会を退職。
また、主イエスキリスト教会から神戸キリスト栄光教会へと移りました。
日本オープンバイブル教団・神戸キリスト栄光教会は菅原亘牧師と3人の伝道師が牧する50名ほどの群れでした。
小さな群れでしたが明確なビジョンのもとに、教職と信徒が一丸となって伝道に邁進していました。
初めて礼拝に出席してその熱心さに魅了され、この教会に神様のみこころを感じ、母教会のつもりで奉仕しようと決心しました。
 
神学生の最後の年と2年間の伝道師の歩みのなかで、指導者としての牧師のあり方、伝道者がどのように教会形成をすべきか、魂に接するべきか、多くの学びと実践をさせていただきました。
この伝道師としての期間、主とともに魂を捉える喜びと、教会の成長を同労者と兄姉達と一緒に体験する喜びの日々でした。
 
この離れ難い教会から昭和63年4月大阪に開拓に出ました。
開拓に先立って菅原師のご好意によって開拓の献金が要請され、多くの兄姉達が更に未信者の方々までが尊い捧げ物をしてくださいました。
同時に教会堂になる場所を探していたのですがなかなか見つかりませんでした。
多くの有力な知人と多くの不動産屋に何ヶ月もかけてお願いしていましたが、2月になっても見つかりません。
大阪への開拓を喜び祈ってくれた姉妹も冗談半分で、
 
 「もう、やめときなはれ。」
 
と言うし、私は神様に、
 
 「わたしの夢は嘘だったのですか。人間の独りよがりだったのでは」
 
と疑い始めていました。
 
ある日、教会堂探しに疲れて交差点に立って、
 
 「神様、一年延ばしても私が恥をこうむるだけだからいいですね」
 
と祈ったその時、示された一軒の古びた民家が目に飛び込んできました。
しかもそれは不動産業を営んでいるようでした。
私はすぐに、
 
 「神様だめです。ここは見るからに頼りなさそうですし、
  きっと失望するだけです。
  私は入りませんから。」
 
でも主はどうしても入るように示されたのでした。
嫌々、店らしい家に入って店主を呼びかけるも誰も出てきません。
奥からは遅めの昼食の調理のにおいが漂ってくるわ、やっと出てきたのはよぼよぼのお婆さん、続いて耳の遠いお爺さん。
心で泣いて
 
 「こんな物件を探しているのですが、ないでしょう、ないですよね!」
 
と早く切り上げて出ようとしました。
イライラする私にその店主は知り合いの同業者に尋ねてくれ、探し出したのが守口・土居郵便局二階の会堂だったのです。
 
なんと神様のなさることは人の道とは違うものか。
その物件は教会堂として立地条件は良いのですが、取得条件が厳しいものでした。
菅原先生の奨めで信仰を強くし交渉にはいりました。
権利金は500万から300万へ、家賃は15万から12万までにこぎつけ仮契約となりました。
手持ちは160万円なのに、本契約の3月下旬までに324万円用意をしなくてはなりません。
 
これは主の戦いです。
私のポケットからはゴミは出てきても何の良いものは出てきません。
主に委ね祈るうちに誰も知らないのに、本契約の3日前に現金だけで340万与えられたのです。
このようにして教会堂の注文した備品すべてのものは備えられ、
5月5日故・万代恒雄先生(松山福音センター牧師)より祝福を祈られ
大阪キリスト栄光教会は開拓を開始したのです。
 
家族4人を含めて洗礼者2人・求道者1人の7名礼拝で始まり、現在開拓から13年目を迎えました。
今、主は守口の良き地に新会堂を与え50名を超える忠実な魂を送ってくださいました。
このわずかな献身の歩みの中で、主は多くのことを教えてくださいました。
 
それは、
 
 「主を信頼する者は失望しない。」
 
ということです。
いつも問題を起こすものは自分自身です。
この肉と情を十字架に貼り付けて、
 
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
宣教の地にて皆様とお会いしましょう。
 


 
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